枝垂れ桜の花吹雪
2
| 「都鳥廓白浪」(みやこどりながれのしらなみ)の桜は、江戸の桜。 芝居の舞台となった東京都墨田区の墨田公園(すみだこうえん)は、現在でも約1Kmにわたって桜並木が続く桜の名所です。この公園は、東京の都心域を貫流する隅田川に面した約1.1Kmにわたる公園で、旧水戸邸の庭園を活かし、日本風庭園として開園したものの、戦中戦後を通じて荒廃していました。その後の大改修で風致公園として復活し整備され、都市公園としての機能も果たしています。 桜は享保年間(1716−36)に8代将軍・吉宗が植えたもので、以来「墨堤の桜」として有名になりました。 注: 「都鳥廓白浪」(みやこどりながれのしらなみ)=下記をご参照下さい。 「墨田公園」(すみだこうえん)=下記「桜もちの葉」にも関連記述があります。 |
「都鳥廓白浪」(みやこどりながれのしらなみ)が本名題(ほんなだい)(本外題(ほんげだい)ともいう)で、通称「忍ぶの惣太」(しのぶのそうだ)別名「桜餅」(さくらもち)とも言います。
初演は安政元年(1854)ですが、「忍ぶの惣太」は新作狂言ではなく、天保元年(1830)、2世・勝俵蔵が書いた「桜清水清玄」(さくらさくらきよみずせいげん)という作品の一部でした。当時はまだ新七と言った河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、4代目市川小団次(いちかわこだんじ)(忍ぶの惣太役)の為に、座元の懇請も容れて改作し、これが大成功を収め、黙阿弥・小団次の名コンビが確立するきっかけになりました。
京都・吉田家の臣・山田六郎は、腰元・梶野と不義をして露見し、邸を出て東へ下り、隅田川の長命寺堤で植木屋を表職とする男伊達に身をやつして世をしのぶ忍ぶの惣太となり、女房お梶(梶野)は名物の桜餅屋を営んでいました。その後、主家・吉田家には御家騒動が起こり、当主の松若丸は行方知れず、家宝の「都鳥の印」が紛失した為に家は没落し、奥方・班女の前とその子供・梅若は、旧臣・山田六郎を頼り、密かに東下します。ところが2人は隅田堤三囲(みめぐり)稲荷前で捕り手にあって別れ別れになり、梅若は家の系図と都鳥の印詮議の為の200両を持って彷徨ううちに癪がおこり、通りかかった忍ぶの惣太に介抱されます。一方惣太は、近頃馴染みになった、男嫌いで有名な吉原の花魁・花子が、実は幼顔に見覚えのある松若丸だと察知して、その身請けの為の100両と、花子が欲しがる「都鳥の印」の代金100両、合わせて00両がすぐにも必要でした。そこで、梅若を介抱するうちに、大金を持っているのを知った惣太は、貸せの貸さぬのともみあううちに、梅若を故主とは知らず誤って絞め殺してしまいました。翌日、かねて悪党らの計略でそこひ(かすみ目の酷いようなもの)になっていた惣太は、女房お梶とその父・軍助らの犠牲により快癒しますが、自分が殺してしまったのが故主とわかり、花子実は松若の手にかかって死をもって詫び、松若は系図と都鳥の二品を得て、御家再興は約束されるのでした。
込み入った筋立てのお話ですが、絵画的な見せ場も多く、歌舞伎の味をたっぷりと楽しめる演しものです。
注:
「本名題」(ほんなだい)=上演される歌舞伎/浄瑠璃等の正式な題名のこと。演目名の「通称」「俗称」に対しての語。
「河竹黙阿弥」(かわたけもくあみ)=歌舞伎狂言作者。文化13年〜明治26年(1816〜93年)。5世鶴屋南北に師事し、2世河竹新七を襲名しますが、明治14年(1881年)に引退を声明して、黙阿弥と改めます。近世の江戸歌舞伎の大成者として有名です。
植木屋と桜餅屋に身をやつして世をしのぶ「忍ぶの惣太」が、故主の幼君と知らずに殺めて金を奪ってしまう、長命寺堤の江戸情緒を背景に展開するこの芝居の序幕は、狂言作者・河竹黙阿弥と役者・市川小団次の結束の礎となり、又「幕末・生世話」「白浪狂言」の原点ともいうべき重要な作とされています。
その2幕目は桜餅屋の風情が描かれていて、桜餅を取り込んだのはこの狂言だけらしく、俗にこの芝居を「桜餅」と呼んでいます。原作の「桜清水清玄」の制作年代の天保の頃には桜餅屋がとてもはやっていたとのことです。
しかし!芝居の「桜餅」と「長命寺の桜餅屋」との関係は、当時から「長命寺桜もち」が大人気であったことと、このお店の向かい岸に吉原が位置していたことなどにあり、現在の「長命寺桜もち」のご先祖様が惣太(又はそのモデル)と何か関係があったというわけではなく、これは様々な書物などを調査してもはっきりしているとのこと。芝居好きの方ならば「桜餅>忍ぶの惣太」、そしてこれは誰もが「桜餅>長命寺桜もち」という連想をすることで、その設定だけを聞いて、長命寺桜もちのご先祖様と忍ぶの惣太とが何か係わりがあるのではないかと思っている人もいるはずです。私自身も、自分で幾冊か調べた書籍では「現在も名物の桜餅屋の風情を取り入れている狂言」などの記述にとどまるばかりでした。
この「忍ぶの惣太」の中で、隅田堤三囲稲荷前(みめぐりいなりまえ)(ここは他のお芝居でも度々出てくる所です)や長命寺堤、隅田川の浪そして咲き乱れる桜、そこへ美しい衣裳を着けた役者衆が立ち回る様は、まさに錦絵そのまま。「忍ぶの惣太」の作者(黙阿弥)の心をとらえたその場所・長命寺堤に、大評判の「長命寺桜もち」のお店があった、これが両者の関係と言えましょう。
現在の長命寺の辺りは、上に高速道路が通ってはいますが、なかなかの雰囲気を持つ所には違いありません。
三囲神社の境内には白い桜が美しく咲き、奥には芝居の場面でも有名なあの鳥居があります。
「長命寺桜もち」のお店は首都高速6号向島線・向島入口の手前にあり、隅田川に向かって右に入口を見て左側・桜橋の方面へ入ってすぐの所です。休日は左側が店の先から通行止めになっていて(店の前までは入れます)車は少し静か。店の前にも3台程の駐車スペースがあります。
「発送はしていません」という桜もちは、店内でできたてを食べると格別の味。(店内ではお茶と桜もち2つで450円。お茶が50円で追加可能なのでおもちの個数はお好みに調節できます)(お土産用は箱入り・籠入りがあります)私も度々こちらの桜もちをお土産で頂くのですが、先日、はじめて店内でできたての桜もちを頂き、(勿論もともと美味しいのですが)その美味しさに同行一同驚きました。
葉は、食べても食べなくてもお好みとのことですが、より桜の香りを味わえる、と、やはり葉と共に食べる方が多いそうです。私は、葉の中央の硬い筋をペリペリと取り除いて、あとは3枚の葉を全てつけたまま食べてしまいます。(「長命寺桜もち」の桜餅は葉が3枚ついています)
中のさっぱりとして滑らかな餡と、餡と葉の間のうすい皮が調和して、飽きのこない美味しさは正に名物。皮も白く色を付けず、葉3枚の着物の中は、華美な見かけなどには頼らぬ実力派というわけです。
長命寺桜もち = 東京都墨田区向島5−1−4
電話 : 03−3622−3266
定休日 : 月曜日
営業時間 : 午前9時〜午後6時
「長命寺桜もち」の店内には、桜もちの由来の書かれた額がかかっていて、この内容はこのお店のしおりにも載っています。(お土産などに入っています)
その内容の中には、「記録によりますと、文政7年(1824年)には、1年間の桜の葉の漬け込みが31樽、葉の数にして約77万5000枚、桜の葉2枚でお餅1ヶを包みますから、38万5000個の桜もちが江戸及び周辺の人々に賞味されたことになります」とありますが、現在食べている「長命寺桜もち」の桜餅には葉が3枚・・・これはこちらの桜餅の特長でもあると思っていたのですが、何故なのでしょうか?その辺りのお話をお店の大奥様に伺わせて頂きました。
戦中、お店のご主人様も戦地へ行く事となり、無事に帰られた後も暫くは食料や材料そのものの不足で、すぐにはお店の営業を出来ず、10年程休業を余儀なくされたということです。被災した人・親戚の人々と寄り添って暮らしている中で、お客様達からも熱望されて、営業を再開。戦前は、1人前が一桝に小さめのお餅を5つも7つも入れて売り、それを墨田堤で持ち歩いて食べていたりしていたのですが、戦後は、人々の甘い物を食べる量も変わったりということで、ひとつのお餅の大きさを少し大きくして、一桝に2個(今も店内では桝に入った桜もちが頂けます)にしたそうです。また、人々にもゆとりが出てきてみやげ物としての需要も増え、籠や箱へ詰めるときに葉が2枚ですと(前述の様に、お餅を少し大きくしたこともあり)他のお餅や容れ物などにくっついてしまうこともあり、3枚の葉でくるむようになったとのことです。実用的な意味合いとしては、乾燥を防ぐのと、桜の香り付けの効果をより強くすることにあり、お餅をすっぽりとくるめる様な大きな葉が混じっていた時などは2枚でも良く、3枚が決まりごとというわけではないそうですが、そのようなことはめったに無いとのことです。
桜もちの由来は、お店のしおりによりますと「当店の創業者山本新六が享保2年(1717年、大岡越前前忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡長命寺の門前にて売り始めました」とのことで、「その頃より桜の名所であった隅田堤は花見時には多くの人々が集い、桜もちが大いに喜ばれた」ともあります。現在、桜もちの葉には大島桜(おおしまざくら)という桜の葉が使われ、これはこの桜の葉が、特に香りが良いことからだそうです。現在、桜の名所として有名な墨田公園は、ソメイヨシノが殆どですが、今でも堤防上には数本の大島桜が残っているそうです。
ちなみに日本の桜を代表する品種である染井吉野(そめいよしの)は、日本の各地に植えられている桜の80パーセント以上を占めるとも言われていますが、この桜の起源については不明な点が多く、最近まで定説となっていた「伊豆半島発生説」をくつがえし、「江戸・染井発生説」を立証するに至った2つの条件の1つに、前述の「1717年に隅田川の川辺の長命寺で香りのよい桜もちが作られて大評判になった」という記録が証明した、「大島桜が1717年には江戸に存在していた」事があるというのも興味深い所です。(この内容に関しましては「桜ブック」(草土出版・下記参照)に載っています)
注:
「大島桜」=伊豆諸島に自生するほか、房総半島や伊豆半島では古くから栽培されて野生化していますが、伊豆大島に特に多いのでこの名があります。
「墨田公園」=東京の都心域を貫流する隅田川に面した約1Kmに渡り桜並木が続く桜の名所で、旧水戸邸の庭園を活かし、日本風庭園として開園したものの戦中戦後に荒廃、その後大改修され約500本の染井吉野が植えられています。もとは8代将軍吉宗が享保年間(1716〜36年)に植えた桜で、以来「墨堤の桜」として有名になりました。この吉宗は、それまで上流階級の行事であったお花見を一般庶民に広めた人で、将軍になった翌年の1717年に御苑の桜を隅田川堤に、1720、1721年には飛鳥山に、1725年には隅田川に、1732年には再び隅田川堤に桜を植えて庶民にお花見を許しました。
「染井吉野」=大島桜と江戸彼岸(えどひがん)から生まれた事が立証されています。江戸時代に誕生したと言われ、明治初年に有名になり瞬く間に日本全土に普及。それまでの桜にはなかった「葉より花が先に咲き乱れる」という特徴が世間で評判をよびました。元は「東京に居ながらにして吉野の桜が見られる」というふれこみで売り出され、「吉野桜」と言われていたのが、これが江戸の染井辺り(江戸の染井村・現在の豊島区駒込から巣鴨周辺)の植木屋から購入されていたことから1900年に日本園芸雑誌にソメイヨシノと発表、ソメイヨシノと呼ばれた最初だといわれています。
「江戸彼岸」=「江戸」というのは原産地が江戸ということではなく、江戸(東京)方面で多く栽培されていたことからこの名がついたということです。花期が早く彼岸の頃には咲くというので「彼岸」の名がつきました。本州・四国・九州の山地に生え、朝鮮半島や中国にも分布し、各地に巨木・名木が残り、天然記念物になっているものも多くあります。
「伊豆半島発生説」=染井吉野は大島桜と江戸彼岸が自生している伊豆半島で自然交配によって生まれたとする学説。
「江戸・染井発生説」=江戸時代に江戸の染井にいた植木屋が作ったとする学説。
*この記事を執筆するにあたりまして
「長命寺さくらもち」様にお忙しい所
お話を伺わせて頂きました。
この場を借りまして改めて御礼を申し上げます。
参考文献:
「名作歌舞伎全集」(株式会社東京創元社(03−3268−8231))
「桜ブック」(株式会社草土出版(03−5996−6601))
「日本舞踊辞典」(株式会社日本舞踊社(03−3463−6081))